板橋宿と江戸の行楽地・王子

第3回 江戸四宿・板橋宿
〜その3

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:北橋なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

見送りと称して実は?

前回は「江戸時代の板橋宿は、交通量も、飛び交うお金の量もハンパじゃなかった」っていうところで終わったんですけど、具体的にどのくらいハンパじゃなかったの?

『中山道宿村大概帳』という天保12から15年(1841- 1844)の統計調査が残っているんだけど、宿往還の長さが約2.2km、うち町並地は長さ約1.7km。宿内人口は2,448人で、そのうち男が1,053人、女が1,395人。家の数は573軒。

男性より女性の数が多いのね。意外だわ。


その理由については後で話すとして、宿場町といえばやっぱり旅館だわな。江戸時代なら旅籠(はたご)だ。大名一行が宿泊する本陣は仲宿に1軒、脇本陣は各宿に1軒ずつで計3軒、旅籠の総数は54軒だ。さすがに千住や品川と比べれば劣るけど、中山道では有数の規模だな。

仲宿って今でも地名で残ってるけど、どういう意味?


上方の方、つまり京都から見て近い方から上宿(かみしゅく)、仲宿(なかじゅく)、平尾宿(ひらおしゅく)と呼んでいて、その総称が板橋宿というわけだ。現在の地名で言えば上宿が本町、仲宿はキミの言うとおり今も仲宿、平尾宿が板橋ということになる。

そういえば以前から疑問だったんだけど、どうして関西のことを上方っていうの?

上方っていうのは江戸時代にできた言葉で、上方の上は「お上」、つまり天皇のこと。政治の中心が京都から江戸に移ったから、「お上」のいらっしゃる京都が「上方」というわけだ。だからこの時代、関西方面に行くことを上る、江戸方面に行くことを下ると表現した。

へぇ〜。今と逆なんだ。今は東京へいくのが「上り」でしょ。


明治以降、天皇は江戸城に住んでいるからね。京(みやこ)が西の京、つまり京都から東の京、東京に移ったから、表現も逆になったわけ。そういえば、キミの大好きな韓国ドラマにも結構「下らない」のがあるだろ。

何言ってるんですか!韓国ドラマはみんな素晴らしいですよ。見たこともないくせに。

李氏王朝のように、差別と搾取を繰り返してきた特権階級を美化するようなドラマが素晴らしいとは思えんけどなぁ。まぁ、あんまり言い過ぎるとクレームが来そうだからやめといて、「下らない」っていうのは、実は上方から来たものじゃないっていう意味なんだ。

ふ〜ん。じゃあ上方から来たものがいいものだっていうことか。


そう。特に着物や織物、食料品なんかは産業の歴史がある関西の方が高級品だったわけ。それに比べて、新興産業である江戸近辺は技術面でかなり遅れていたから、上方から下ってきたものに比べるとどうしても品質が劣る。だから「下らない」ものということになった。

どんな言葉にも語源というものがあるわけね。ところで、男性より女性の方が多かったっていう話だけど…。

はいはい、それね。まず宿場町というより、温泉宿が並ぶ温泉街をイメージして欲しいんだけど、温泉街には旅館以外にいろんな施設があるだろ。まずはグルメだ。それに飲み屋。江戸時代なら茶屋に酒楼。加えてストリップやソープランドといった風俗施設ね…。

ははぁ、女の人が多かったっていうのはそういうことかぁ。


江戸時代、売春は公認だったからね。宿場女郎のことを「飯盛女(めしもりおんな)」と言うんだけど、板橋宿には最大で150人ぐらいいたらしい。こうした風俗を専門とした旅籠は主に江戸側の平尾宿にあった。木賃宿とか馬喰宿といった安宿は主に京都側の上宿だ。中心となる仲宿には問屋場や貫目改所、馬継ぎ場、番屋といった公的な施設が並んでいたわけ。

もしかして、そういういかがわしい場所が江戸側にあるっていうことは、板橋に来るのは旅人だけじゃなかったっていうことじゃない?

キミはその手の事に関してはなかなか鋭いね。実はそうなんだ。通いで馴染みの女郎に会いに来る客や、見送りと称して遊びに来る客も多かったようだね。明治時代になって板橋宿が廃れても、板橋遊郭としての賑わいだけは昭和初期まで残った。中でも最大級の遊郭だった「新藤楼」の玄関部分が板橋区立郷土資料館に移築保存されているから、機会があったら見て見るといいよ。

遊郭かぁ。きっと悲しい女のドラマがたくさんあったんでしょうね。

仲宿にある文殊院境内には「遊女の墓」という一角がある。ここがかつて遊女の「投げ込み寺」だった名残だね。誰も引き取り手がいなくて病気なんかで死んでいった名もない遊女をお寺で弔ったわけだ。今の都市化した板橋も、そんな数々の埋もれた人生の上にあるというわけさ。
<次回へ続く>

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